大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和32年(ネ)1351号 判決

控訴人が昭和二十七年十月二十七日夜、小松川警察署管下の東小松川五丁目巡査派出所に出頭し、同所で木村国栄巡査部長から詐欺事件について被疑者として取調を受けたこと、その容疑事件というのは、「控訴人が昭和二十六年十一月十八日午後四時頃シート(天幕、雨具)類の販売をしていた被控訴人中島輝臣(以下被控訴人輝臣と略称する)方で留守番の被控訴人中島美恵子(被控訴人輝臣の妹、以下被控訴人美惠子と略称する)から雨合羽四着を七千円で買い、代金として額面一万円の小切手らしい紙片一枚を交付し、それが有効なものであると誤信した被控訴人美恵子から釣銭として金三千円を騙取した。」という事実であること、右被疑事件は同警察署から東京地方検察庁へ送致されたが審理の結果昭和二十七年十二月十六日犯罪の嫌疑なしとの理由で不起訴処分になつたことは当事者間に争いがない。

控訴人は、「控訴人が右のように詐欺犯人としての嫌疑を受けるに至つたのは、被控訴人らが警察官や検察官に対し、控訴人がその犯人であると申告したためであるが、これがため控訴人は自己の名誉を失墜し、堪え難い精神上の苦痛を蒙つた。」と主張するから調べてみると、前記当事者間に争のない事実に、尚当事者間に争のない、控訴人と被控訴人輝臣が古くからの知合で二、三丁離れて同一町内に住んでいたこと、被控訴人美恵子が被控訴人輝臣と同居していること、昭和二十七年十月二十六日午後二時頃被控訴人輝臣が同被控訴人方前を通りかかつた控訴人を呼び入れて世間話をしたこと、被控訴人美恵子が木村巡査部長等搜査係官に対し控訴人が犯人に間違ない旨を述べたことの諸事実と成立に争のない甲第一号証、同第二号証の一ないし五、同第三号証の一、二、同第四号証の一ないし四、同第八号証の一、二、乙第一号証の一ないし三、原審証人木村国栄、原審ならびに当審証人佐藤忠雄の各証言、原審における被控訴人中島美恵子および原審ならびに当審における被控訴人中島輝臣各本人尋問の結果、および原審ならびに当審における控訴人本人尋問の結果を総合すると次の事実を認めることができる。すなわち、

被控訴人美恵子は同輝臣の妹であり同居していたのであるが、昭和二十六年十一月十八日被控訴人美恵子(当時二十歳)が被控訴人輝臣方で店番をしていた際、田中弘と自称する男が雨合羽四着を七千円で買い求め、代金として一万円の金額が記入してある小切手らしい紙片一枚を交付したので、被控訴人美恵子はこれで銀行から支払を受けることができるものと思いこみ、釣銭として金三千円をその男に渡したが、その後で右小切手らしい紙片は全然無価値なものであることを知り、かつ品物の届け先として指定された場所を尋ねたが田中弘なる者は実在しないことを確かめて三千円を騙取されたことに気付き、二、三日後帰宅した兄の被控訴人輝臣にその旨を告げた。そこで被控訴人輝臣は、自己の名義を以て昭和二十六年十一月二十二日附同月二十五日受附の書面を以て小松川警察署に詐欺被害届を提出しておいたが、犯人は検挙されないまま約十ケ月を経過した。被控訴人美恵子はその間も右被害事実が念頭を離れず、何とかして犯人を探し出したいと思つていたところ、たまたま昭和二十七年九月頃、自宅附近の路上で知人の松浦某と挨拶を交わしている男が右犯人と似ているもののように見てとり、あとから松浦に尋ねてその男が近所の椎橋湯のそばで乾物屋を営み、保険の外交もしていることを知つたので、その約一週間後に、たまたま隣家を訪れた小松川警察署勤務の木村国栄巡査部長に対し今までの経過を告げた。木村巡査部長はこれを聞き、早速同警察署東小松川五丁目巡査派出所勤務の佐藤忠雄巡査に対し右犯人の搜査を命じたので、同巡査は内偵の結果被控訴人美恵子のいう「犯人によく似た男」というのは控訴人であることをつきとめたが、被控訴人輝臣が控訴人と前々から知り合であることも判つたので、同年十月初頃被控訴人美恵子に対し、なおよく調査し、人違いでないことを確かめるように指示をした。被控訴人輝臣は同月二十六日、たまたま自宅前を通りかかつた控訴人を屋内に呼びこみ、約三十分間世間話をしたが、その間被控訴人美恵子が控訴人の人相や特徴を観察した上、控訴人が犯人に間違いないとの確信を深め、翌二十七日佐藤巡査にその由を申告した。そこで同巡査から報告を受けた木村巡査部長も、控訴人が前記詐欺犯人ではないかとの疑を抱くに至り、同夜控訴人に東小松川五丁目巡査派出所まで出頭を求め、被疑者として取り調べを行なつた。その取り調べに対し、控訴人は極力身に覚えがない旨を主張したが、同時に同派出所に出頭した被控訴人美恵子が警察官に対し控訴人が犯人に間違いないと強調したため疑は晴れず、控訴人は同夜帰宅を許されたが、遂に事件は東京地方検察庁へ送致され、検察官の取り調べを受けるに至つたけれども、結局昭和二十七年十二月十六日犯罪の嫌疑なしとの理由で不起訴処分になつた。原審における被控訴人中島美恵子、および原審ならびに当審における被控訴人中島輝臣の各本人尋問の結果中、右認定に反する部分は当裁判所の採用しないところであつて、他に右認定を覆えすに足る証拠はない。

被控訴人らは、控訴人が詐欺の容疑で取調を受けたのは被控訴人らの行為が原因となつたものではない。被控訴人らは搜査機関に対し控訴人を犯人であるとして告訴した事実はなく、右被疑事件は警察がいわゆる聞き込みによりその自由な判断によつて控訴人に対する搜査を開始したものであると主張するけれども、上叙認定の事実経過にかんがみると、控訴人が搜査官憲から詐欺犯人の被疑者として取調を受けるに至つたのは、被控訴人美恵子が、控訴人に対し告訴はしなかつたが(甲第一号証における告訴人又は被告訴人の記載が誤であることは原審証人正木英信の証言により明かである)、警察官に対し、控訴人が犯人に間違いない旨を告げ、かつその後もその陳述を強く維持したことが原因になつていることが明らかであつて、同被控訴人が右のような申告をしなければ、控訴人に対する搜査は開始されなかつたものである。被控訴人輝臣が詐欺被害届を小松川警察署に提出したことは前記の通りであるけれども、その届書は控訴人に関し何事も言及していないことは前記甲第二号証の一により明かであり、又同被控訴人が前認定の通り昭和二十七年十月二十六日自宅前を通りかかつた控訴人を呼び入れ約三十分間世間話をしたことも、それが被控訴人美恵子と共謀し又は被控訴人美恵子の行為を幇助したものであるとも俄に断定し難く、甲第一号証(同号証中告訴人又は被告訴人の記載が誤であることは前記の通りである)その他控訴人の提出援用にかかる凡ての証拠を以てしても被控訴人輝臣の行為により控訴人に対する官憲の搜査がなされたことを認めるに足りない。

しかるに、成立に争ない甲第四号証の一ないし四同第五号証、原審証人正木英信の証言、原審並びに当審における控訴本人尋問の結果と前記当事者間に争のない、控訴人が嫌疑なしとの理由で不起訴処分になつたという事実を併せ考えると、控訴人は本件の詐欺犯人ではないと認めるのが相当である。原審証人佐藤忠雄同木村国栄の各証言によれば、昭和二十七年十月二十七日夜控訴人が東小松川五丁目巡査派出所において取調を受けた際、警察官から手記を求められたが口実を設けてこれに応ぜず、「中島を知つているか」と問われて「知らない」と答え又被控訴人美恵子と対面させられたとき一瞬狼狽の色をあらわしたことを認め得るけれども、突然交番に呼びつけられ詐欺行為の疑ありとして取調を受けるときは、何人と雖も多少精神の動揺を来すことは免れないから、控訴人が前記のような挙動をしたからとて本件詐欺の真犯人であるという嫌疑をかけるのは早計である。その他被控訴人らの全立証によるも控訴人が詐欺犯人でないという前認定を覆えすに足りない。

ところで、詐欺犯人でない者が、詐欺の被疑者として警察官や検察官の取り調べを受け、原審証人島田熊次郎同内山碩蔵の各証言により認め得る通りその事実が町内に知れ渡つた場合には、たとえ右取調が所謂任意出頭の形で行われた(この場合警察署や検察庁からの呼出に応じて出頭することは善良なる市民の常識であつて、強制搜査でないから呼出に応じないというのは例外である)としても、その名誉権を侵害され、精神的苦痛を感ずることはいうまでもない。従つて故意または過失によりその原因を与えた者はこれが賠償をなすべき責任がある。

よつて、被控訴人美恵子に故意もしくは過失があつたかどうかについて審究する。前認定のように、被控訴人美恵子はその記憶にある犯人の人相等からして控訴人が詐欺犯人であると確信してその旨を警察官に申告したものであるから、同被控訴人において、控訴人が犯人でないことを知りながら故意に犯人であると申告したという事実は認められない。従つて同被控訴人に不法行為の故意があつたという控訴人の主張は理由がない。そこで過失の有無について考えてみる。被控訴人美恵子は詐欺にかかつたことを知つた後約十カ月間被害事実が念頭を離れず、何とかして犯人を探し出したいと思つていたところ、たまたま昭和二十七年九月頃、自宅附近の路上で知人の松浦某と挨拶を交わしている男が右犯人と似ているもののように見てとり、あとから松浦に尋ねてその男が近所の椎橋湯のそばで乾物屋をしており、保険の外交もしていることを知つたこと、その男は控訴人であることが後に巡査の内偵によつて判明したこと、同年十月二十六日被控訴人輝臣はたまたま自宅前を通りかかつた控訴人を屋内に呼びこみ、約三十分間世間話をしたが、その間被控訴人美恵子が控訴人の人相や特徴を観察した上、控訴人が犯人に間違ないとの確信を深めたことはさきに記載した通りであつて、尚前記甲第二号証の三、四原審証人佐藤忠雄同木村国栄の各証言及び原審における被控訴人中島美恵子本人尋問の結果によれば、是より先昭和二十七年七月頃被控訴人美恵子は自宅附近の道路において自分の前方を歩いている男の後姿が記憶にある犯人に違ないように思えたので、急いでその男を追越し振返つて顔を見たら正しく犯人に相違ないと思つたが、その男は控訴人であることが後に判明した事実を認めることができる。以上の各事実から考えると、控訴人美恵子が控訴人を詐欺犯人であると確信するに至つた根拠は、控訴人の人相、年令、服装や言動の特徴が自己の記憶にある犯人のそれと符合するということであつて、それ以外には何もないことが分る。被控訴人輝臣が昭和二十六年十一月二十二日附を以て小松川警察署に提出した詐欺被害届(甲第二号証の一)には、被疑者の人相特徴等として、「丈五尺一寸位、ヤセ型、上歯全部金入、黒の背広、黒色ズボン、髪長し」という記載があり、当審における被控訴人中島輝臣本人尋問の結果によれば、右記載事項は被控訴人美恵子が被控訴人輝臣に告げたそのままであることを認め得る。然るに被控人美恵子が昭和二十七年十月二十八日附同月三十一日受附の書面を以て小松川警察署に提出した詐欺被害届書(甲第二号証の二)には、被疑者の人相特徴等として、「人相、黒のセ広、黒ズボン、年五十歳位、白髪、話をする時に舌をなめずりする、金歯が二、三本(前の上)」と記載している。右二つの詐欺被害届書を比較すると、人相等について被控訴人美恵子の記憶は正確でなかつたと云える。或は同被控訴人が詐欺にかかつてから控訴人を犯人であると確信するに至るまでの前記経過と前記甲第四号証の四により認め得る控訴人の前歯上列に二本の金歯があることを綜合すると、被控訴人美恵子は控訴人が真犯人であると思うの余り前記被害届書に被疑者の人相等を記載するに当り知らず知らず控訴人の人相等に影響されたとも認め得るのであつて、いずれにしても同被控訴人の記憶は正確でない。同被控訴人はかかる記憶に基ずいて控訴人を詐欺犯人であると断定した。けれども、人間の記憶は正確を期し難いから、いやしくも他人を詐欺犯人として警察官に指名申告するような場合には、単に人相、年令、服装や言動の特徴が似ているというだけでは足らず、慎重に事実を調査し、人違いにならぬように周到な注意を払わなければならないことは社会通念上当然である。控訴人と被控訴人輝臣とはかねてから知り合いの間柄であり、二、三丁離れて同一町内に住んでいたことは当事者間に争いのないところである。そして原審証人内山碩蔵、同島田熊次郎の各証言、原審ならびに当審における控訴人本人尋問の結果、原審における被控訴人両名の各本人尋問の結果によると、控訴人は昭和七年頃から右住居に居住して乾物商を営み、保険の外交をやつたりする傍ら戦時中や戦後を通じて町内会の世話役も勤め、近隣でよく顔を見知られている者であること、被控訴人美恵子においてもその後の調査により、警察官に対して控訴人が犯人であると申告をする以前に右の事実の一部は承知していたものと認められる。原審における被控訴人両名の各本人尋問の結果中右認定に反する部分は当裁判所の採用しないところである。かように直ぐ近所に住み、かつ近隣の人によく顔を見知られている者が、かねて知り合いの家で釣り銭詐欺をはたらけば(たとえ店番をしている被控訴人美恵子が未知の者であるとしても)間もなく発覚することは火を睹るより明らかであるから、かかる危険を冒して僅か三千円位の詐欺をするには特段の事情がある場合に限られるものと思われる。従つて被控訴人美恵子は、たとえ控訴人が犯人の人相等に酷似していると思つたとしても、よくその間の事情を調査した上、慎重にその行動を決すべきであつた。しかるに被控訴人美恵子は約十ケ月前の記憶を唯一の根拠として控訴人を犯人であると即断し、特段の調査もせず、「控訴人が犯人である。」と警察官に申告したのは、通常社会人としての必要な注意義務を欠くものであるから、過失の責を免れることはできない。従つて、同被控訴人は控訴人に対し、その名誉を害したことによる精神的損害を賠償すべき義務がある。

そこでその損害賠償の数額について考えてみると、成立に争のない甲第四号証の一と、原審ならびに当審における控訴人本人尋問の結果によると、控訴人は被控訴人美恵子の申告による詐欺事件について、小松川警察署や東京地方検察庁へ数回呼び出されて取調を受けたが、別段逮捕されたり、勾留された事実はなかつたこと、控訴人は不動産その他特記すべき資産をもつていないが、二十数年前から前記の東京都江戸川区東小松川において乾物商を営むとともに日本生命、同和火災、富士火災等各保険会社の勧誘員をしており、昭和十八年頃から居町々内会の役員を勤め、昭和二十六年四月からはその副会長に就任したこともあることが認められる。また被控訴人輝臣が前記住所地において雨具商を営み、被控訴人美恵子はその妹で同家に同居して右営業を手伝つている者であることは当事者間に争のない事実である。以上の事実を彼此総合して考えると、被控訴人美恵子が控訴人に対して支払うべき損害賠償の額は金二万円が相当であると認める。

(奥田 岸上 下関)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!